mad

 【最近1週間ほどの記事】 (* のついた写真はクリックで拡大します)


5月8日(木) 穴蔵/ウロウロ
 未明、鉄道番組ではなく「空の島旅」をやっていた。長崎の島巡りのようで、高島の「四階建て」が鮮明な空からの映像が流れた。軍艦島は俗化してしまい、高島が長崎では唯一行ってみたい廃墟だが、もう無理だろうな。
 晴。本日も絶好の散歩日和だが……午前、気の重い用件で外出。
 播州龍野の固定資産税関係で梅田の金融機関まで。なんとか今年で最後にしたいものだが……
 ついでに地下街ウロウロ。
 久しぶりにお初天神にお詣り。幸い人出はなし。
  *
 筋違いと思うが、他の神社お地蔵と同じことをお願いする。
 東側の横丁、4年前の火災現場の跡には「お初天神東門ビル」が完成間近であった。こちらも復活しなければ。
 瓢亭は相変わらず混んでいる。諦めて帰館。
 午後は穴蔵。好天だが気分は梅雨空のごとし。
 こんな日は明日に備えて早寝するに限る。

5月7日(水) 穴蔵/ウロウロ
 少し早起き。2時半に目覚める。やっと連休明けという期待感からか。
・BSで『エイリアンVS.プレデター』をやってるが、どうもなあ。パス。
 マジメに机に向かう。
・5時前、ニュースを見ようとテレビつけたら、NHK「視点・論点」に中野晴行さん登場(再放送?)。
 やなせたかしの功績について語られる。久しぶりに会うが、風格が出てきたな。お元気そうて何より。
・晴。平日(世間の多くは職場か学校)。絶好の散歩日和である。
 昼前に散歩に出る。淀川堤へ行くというと、専任料理人がついてきた。
 貨物線跡を西へ、中津商店街を抜け、十三大橋を渡り、淀川右岸、十三の河川敷へ。
 本日の主目的「十三船着場」を見物。
  *
 先日「オープニング・セレモニー」があってアクアライナーが着岸する映像を見たのだが、船の気配はなし。案内板もなし。係船柱(ビット)が何本か立ててあるだけ。
 これは十三地区への「緊急用船着場」であって、緊急時のみ使用、だから普段は船の発着なし……ということらしい。
 上流(毛馬)に淀川大堰閘門(淀川ゲートウェイ)が完成したから、伏見からの船がゲートウェイを抜け、十三経由で夢洲の万博会場というコースができると思っていたが、こちらのかん違いだったようだ。
 最近のわが街歩きの興味は「未来廃墟」巡りで、完成したばかりの施設が廃墟化していく姿を想像して楽しむのだが、十三船着場は出来たとたんに廃墟、というより最初から廃墟を作るのが目的だった気がする。すでに廃墟の雰囲気が漂っているのだった。
・あと、淀川右岸を上流へ、西中島まで。45年前、長男をベビーカーに載せてよく来たあたりである。
「下界」におりて「大阪御廟」を見物。揉めておるなあ。最高裁で差し戻し、もう10年以上になるかな。まだまだ続きそうな。
 昔住んでいたコーポの前を通り、チャントリのカシラゆかりの「鯛商店」(鯛ビルは残っている)を眺めたあたりで昼になった。
 周辺のうまそうな店にはどことも行列。昔よく歩いた道を新大阪まで。この辺りも混み合っている。
 勢いでそのまま東三国まで歩き、駅西側の町中華・某店へ。
 ここで久しぶり(10年ぶりくらいか?)にカレー丼をいただく(専任料理人は五目焼きそば/少し分けてもらった)。
 満腹状態で、東三国から地下鉄で帰館。12000歩ほどになった。
・午後、BSで『シックス・センス』をやっているが、パス。バレバレのネタを大真面目に作って、『サイン』ほど呆れかえる作品ではなかったものの……シャマランというのはよくわからん監督だったなあ。
 本日は早朝も午後もおかしなSF映画。
 やはりどこかの配信と契約した方がいいか。

5月6日(火) トラッドジャズ@ニューサン
 やっと4連休の最終日。朝だ雨だ。未明から本降り。
 絶好の穴蔵日和である。
 ただし本日は出かける用事あり。
 午後に雨はあがった。天に感謝して梅田へ歩く。ニューサントリー5へ。
 Traditional Jazz Festival ……はじめての試みである。
 ODJC関係のトラッドジャズ6バンド+ゲストで、ジャムセッションも加えて次々演奏する「小さなお祭り」。
 13時から6時間。会場はニューサン。つまり日曜日の「昼下がりライブ」の拡大版である。
 大混雑になるのではと心配していたが、前列あたりは「ごひいきバンド」の席で、事前にリクエストしておけば座れる方式。
 ラスカルズでお願いしていたので、その出演時間は最前列で聴かせていただいた。皆さん紳士淑女である。
 ラスカルズには加藤平祐さん(cl)と池本徳和さん(tp)が参加。
  *
 加藤さんは河合良一さんから譲り受けたクラリネットを持っての参加。何よりもこれが聴きたかったのである。
 ラスカルズ40分、引き続き、7年前までは定期的に演奏していたが、今は(東京に戻った)加藤さんの来阪時のみ集まるキッチン・ファイブの演奏もあり。
 1時間半ほど、加藤平祐さん(河合良一さん)のクラリネットの音色を満喫した。
 引き続き後ろの方の席に移って聴けるのだが、相当混み合っており、これで満足(That's a Plenty)気分になったので、このあたりで失礼する。
 夕暮れの梅田を歩いて帰館。
 気分の重い(世間の)長い連休だったが(わたくしには)最高の終わり方になった。

5月5日(月) 穴蔵
 4連休3日目。ガキの日。晴。絶好の行楽日和なので、終日穴蔵で過ごすことにする。
 テレビはアホばかり出てくるので見ないことにして、ほぼ終日本を読んで過ごす。

眉村卓『傾いた地平線』(小学館 P&D BOOKS)
 眉村さんの『傾いた地平線』がP&D BOOKSに入った。『燃える傾斜』『EXPO'87』につづいて3冊目。
  *
 原著は1981年に刊行されている。『消滅の光輪』のあと、作風が大きく拡大していく時期で、その後の「私ファンタジー」系につながる最初の長篇である(短篇は「あの真珠色の朝を…」1973?と思う)。
 再読、やはり傑作である。
 大阪SFとしては、宇治電ビルが克明に描写されている。これは貴重だ。
 なによりも嬉しいのが日生での生活描写で、短編やエッセイにも色々出てくるが、この長篇がいちばん細部まで書き込まれている。その多くを忘れていた。
 日生で柔道部をつくる話とか、工場視察に来た役人を観光船に乗せて島巡りする話なども面白いが、今回最大の発見は、最初の赴任時代に総務課長と社内報の校正で岡山へいっしょに出かけるエピソードである。課長は映画好きで「映画監督になろうと思った時期があってね」「家を飛び出して、映画会社を訪ねたこともある」などと打ち明ける。帰路、岡山でいっしょに『挽歌』(1957)を見る。年代から、これは実話だろう。その後、その課長は役員になり社長になったとある。
 この課長は大森侃二氏である(これはヨータイにも確認した)。村上青年に沢井あきら名で「霧に沈んだ人々」を「窯耐通信」(今のヨータイ通信)に連載させたのも大森課長であることに確信が持てた。おそらく、村上青年のSF好きが、自分の映画好きと同質と思われたのだろう(これは推定)。
『眉村卓の異世界通信』の日生ルポには書かなかったが、この取材の時、1956年の「窯耐通信」に載った小津安二郎『早春』の詳しい紹介記事を読んでいる。池部良・淡島千景主演のこの作品のロケが日生工場で行われたのだから、社内報での紹介は当然としても、その記事は映画誌のレベルで、鋭い映画評まで書かれていた。大森課長自ら執筆されたと思えば合点がいくのである。
 さらに、こんな想像もする。眉村さんの入社が1年早かったら(あるいは『早春』の制作が1年遅かったら)、村上青年が池部良の取材に同行する機会があったのではないか。その結果どうなるか……
 個人的な面白がり方ばかり並べてしまったが、今回再読して、体験とフィクションの間合いというか微妙な距離感を色々学ばせてもらった気がする。

5月4日(日) 穴蔵
 4連休2日目。晴。絶好の行楽日和なので、終日穴蔵で過ごすことにする。
 時々ニュースを見る。よくこんなにと思うほどアホばかり。
 すべてが嫌になって小学生の列にクルマで突っ込むアホ、元交際相手の死体を自宅に隠して海外へ行ったアホ、包丁振り回すアホ、刺すアホ、極めつけは海外で、ローマ教皇を真似た写真を公開するアホ……
 まったく「すべてが嫌になって」くるなあ。
 健康に良くないので、午後1時間ほど運動。専任料理人についてスーパー往復、液体系重量物の運搬を行う。
 A先生のアトリエ前を通過する。
  *
 ツツジが鮮やかであった。
 また穴蔵に戻る。
 しばらく読んだ本のことを書いてない。しばらくどころか、2年以上になる。
 白内障以来、近距離を見続けると目が疲れやすく、読書量が落ちたが、読んでないわけではない。
 気分を入れ替えて、これからしばらく本のことを書いておこうと思う。

森下一仁『エルギスキへの旅』(プターク書房)
 森下一仁さんの久しぶりの長篇。なんとシャーマニズムSFである。
  *
 世界を“騒乱”が襲った数年後、ぼくは死亡(行方不明?)した母の消息を調べに、まだ廃墟が残る道を、父と自転車で数泊の旅に出る。京浜間のどこからしい「エルギスキ」という町。巨大な盆地状の町には極東ロシアから移住してきた人たちが棲みついていた。そこでぼくはひとりの少女に惹かれ、移住することになる。町では不思議な儀式と、「研究所」ではシャーマン文化と最先端技術を融合させる実験が行われていた。ぼくには(遺伝子解析から)シャーマンの資質があるらしいことが判明するのだが……
 シャーマニズムをテーマにしたSFが過去にあったかはよく知らないが、シャーマンの超能力(?)と最新のAI技術(とは書かれてないが)を結びつけるなど、いかにも現代的だなと思ったら、なんとこの長篇、30年以上前(1991〜94)にSFマガジンに不定期連載された長篇である。このたびクラウドファンディングで書籍化されたという。知らなかった。
 まったく古びていない、というより、すごく新鮮に感じるのは、技術的な理屈部分を抑制して、主人公の幻覚(?)描写に重点が置かれているからだろう(たとえば、鳥にさらわれ巨木に貼りつけられた主人公が、葉脈を見つけ、樹液に流れに逆らってその源流をたどり、幹から根の先端を経て地下空間に入り込む描写など)。それに少年期から数年間の奇妙な恋愛感情(こちらが物語の軸となる)の描写も見事だ。
 後半、舞台はシベリアへ、さらに……と拡大するが、これ以上は触れないでおこう。
 このような資質を与えられた主人公が「幸せ」なのか、読み手によって大きくちがうと思う。それは「幼年期の終り」でも「都市と星」でも同じであって、つまりそれだけ「SFの本質」に迫っているといえるだろう。
 ある意味「古典的風格」のある長篇で、今出版される意義は大きい。

>>ちょっと前の記事

>>もっと前の記事【1996年〜の目次】
SF HomePage